今はもう亡くなって20年以上経ちますが、おもしろい営業マンがいました。
車の運転はピカいちで、四トントラックを百貨店の狭い搬入口までバックでピタリとつけてくれました。カラオケも(ハチトラの頃です。)うまくて釜ヶ崎ブルースが得意でした。角川博みたいでスナックへ行くと人気者でした。奥さんと喧嘩したと言って、いつもいっしょに出張していた営業マンのところへ、なんと!15キロの距離を歩いて行ったこともありました。思い立ったらとことんまでという人でした。
30年ほど前は百貨店の催事場を使った輪島塗の展示会をよくやっていました。泊まるところは、ビジネスホテルもありましたが、旅館でみんなで雑魚寝みたいなこともありました。旅館だと夕食はいつも宴会になります。酔っぱらって部屋へ帰ると、あとはテレビを見て寝るだけです。イビキのうるさい人は寝てる間に布団ともがら廊下へほっつき出されます。夜中にトイレに行くときも他人の足を踏まないように、そっとすり足で部屋を出ました。そんなある日、藤井さんが夜中にむくっと起きて立ちました。私は「どこ行くが?」と聞きますと「トイレ」と言って部屋の壁を手探りで触りながら歩いていました。部屋を半周ほどしたところで大きな引き戸があり、そこをスッと開けて「じゃぁ、行ってくるわ」と言って出ようとしたのです。私はパッと起きて藤井さんの腕を掴んだのです。なんと開けた引き戸は、実は二階の窓のアルミサッシだったのです。「行ってくるって、それじゃあ、あの世やがいね!」と言って、翌朝、みんなで笑ったのを今でも覚えています。
会社のみんなで夏のキャンプに行ったときです。夜ごはんは、お昼にみんなで獲ったサザエやアワビと焼き肉です。あの頃はサザエやアワビを獲っても、まったくうるさくありませんでした。バーベキューも終わって、真夜中に、他のテントの中から「ぷらすー、まいなす、ぷらすー、まいなす、あれ?」という声が播州皿屋敷のお皿を数える声のように繰り返しずっと聞こえてくるのです。声で藤井さんだとすぐわかったのですが、いったい何をやっているのだろうテントを覗きました。そうすると、トイレに行くので懐中電灯の明かりをつけようと思ったらしいです。「懐中電灯の中の電池がなんで出てきたのか解らんけど、中の電池が出てバラバラになったもんで電池を懐中電灯に入れとるげっちゃ。」と言うのです。スイッチを懐中電灯のお尻を回して点けるものだと勘違いしたようです。一晩中、ぷらすーまいなすとやられても困るので組み立ててあげました。
別の年のキャンプの夜です。夜釣りをすると言って藤井さんは電気ウキと竿とその他一式を持って海の方へ行きました。私たちは、夜のバーベキューも終わって、二次会をしていました。少し離れたところで藤井さんは釣りをしています。「あれー?なんも電気ウキが動かんわ。」と言っているので「魚、おらんげわ」と私は言いました。しばらくして、藤井さんは「ウキ切れたし、釣るがやーめた。」と言って帰ってきました。翌朝、藤井さんの釣っていた場所をみると海水までいかない砂地とつながった大きな岩の上に電気ウキが一個のっていました。「そりゃあ、電気ウキも動かんわ」とみんなで大爆笑したのです。
いやー楽しい思い出です。
ありがとうございます!
若島基京雄(わかしまきみお)
全国を行商して歩いた祖父・父は、旅先で大変可愛がって頂き、現在でも祖父・父を知るお得意さまが多数ございます。
祖父・父は、「物がなくても売る」達人 営業マンでした。
お客様の前で輪島塗の器の仕上がりのイメージを、すらすらと絵に描いて見せ、仕上がった見本が無くても注文を取りました。器の形や色、蒔 絵・沈金の模様まで、その場で細かくうち合わせができ、仕上がった品は、大変お喜び頂いたそうです。
私もそうなりたいと、自己流ながら勉強し、輪島の技法の全てを頭にたたき込み、
お客様の求める物のイメージを形にしたい、と思っています。
現在は、器物の 形から、蒔絵・沈金の図案までお客様のご要望に合わせ、
自分で作図して制作にあたります。
頭の中で見える仕上がりの姿を、木地師から蒔絵・沈金師に細かく 指定し、
喜ばれる、そして末永く愛して頂ける輪島塗を生み出していきたいと考えております。
輪島漆器商工業協同組合 監査役
石川県輪島漆芸美術館 友の会 事務局長
合気道 奥能登合氣会 会長
輪島漆器大雅堂株式会社 代表取締役