大学を卒業して直ぐに北海道の小樽に出張しました。
輪島塗の勉強はちょっと本を読んだ程度です。やっと輪島塗のしまい方の基本を覚えたかもねというところで、ほとんど搬入搬出要員でした。その時の一番の楽しみは、晩ご飯でした。
約35年前のことなので、いっしょに行った営業の人もみんな働き盛りです。上〇さんはお昼ご飯にかつ丼大盛にラーメン大をペロッと食べていました。細身ですががっちりとした体格でお客様に食いついたら絶対はなさないマムシの上〇と言われていました。
そこはスッポンやろ!って突っ込みたくなりますよね。でも、なぜかマムシなんです。私の記憶ちがいかな?
お酒を呑みすぎるとちょっと乱れる傾向がありましたが、優秀な営業マンでした。今は退職してお孫さんのいい友達になっていることと思います。山〇さんは、これまた素晴らしい営業マンで、知らない間に、あれっ⁉決まったん?ほんと?ていうくらい大物を次々と落としていくやり手でした。本当に頼りになる名(迷)コンビの二人でした。あの二人が行ってダメなら諦めもつくよというくらい絶大な信用がありました。残念ながら山〇さんは3年前に亡くなってしまいました。いつも言っていたことは「おれが出張しんがになったら死ぬわ」でしたが、その通り出張しなくなって半年くらいで亡くなりました。今でもあの笑顔が忘れられません。
で、話は元に戻りますが、八角の美味しいことと言ったらありませんでした。いやービックリ!皮までも素揚げだったか焼いたか忘れましたが、酒のつまみにもってこいの美味しさでした。もしかしたら、骨を素揚げにして皮はカリッと焼いてあったかもしれません。よく売れた日の晩は自腹ですが大宴会です。なんだか一生懸命お客様に説明したら何とか売れたそんな時代でした。みんなでお互いに褒めあって盛り上がってやる氣を出すのです。出すのではなくて、やる氣が出たものです。楽しい思い出です。
話が、またまた逸れたので、元に戻して、搬出の時です。二人のしまう速さと言ったら凄かったです。私はお椀とか茶托とかの小物を一生懸命しまっていましたが、半分もしないうちに家具関係大物がすべて箱詰めされていました。
そして、小物もパッパッとしまっていくのです。私が屠蘇器をしまうところで手間取っていると、「こんなもんに手間取っとったらだちかんがいね。屠蘇器はここがツボや!」と言って、屠蘇器の銚子の蓋のしまい方を教えてくれました。いやーなるほど!と思いました。
今でも私は、初めての人には「ここがツボやっ!」って言っています。実は、輪島塗の販売のプロでも知らない人が多いのです。この時、本ばっかり読んでいてもダメや、実戦あるのみや!と思うようになりました。本がダメなのではなくて、本を基礎にした上での実戦という意味です。出張に行ったら先輩営業マンの後について漆器を磨くふりをしてお客様に話す内容や言葉使いを覚えていきました。
絶対に先輩に聞いたりはしませんでした。見て盗め!です。職人さんの世界では当然の話です。今はダメなことを繰り返していてもそれでいいと思っていて、教えてあげても(* ̄- ̄)ふ~んという感じです。やる気があるんだかないのか、欲がないのか、ふー、、、。です。
行きも帰りも遠いので、フェリーで一泊か、陸路でどこかで一泊です。売れた時の帰りは、もう楽しくて、安い温泉を探してそこで一泊します。小さな旅行気分でした。
輪島塗の営業は、心も体もタフでないとやっていけないということがよくわかった10日間でした。
若島基京雄(わかしまきみお)
全国を行商して歩いた祖父・父は、旅先で大変可愛がって頂き、現在でも祖父・父を知るお得意さまが多数ございます。
祖父・父は、「物がなくても売る」達人 営業マンでした。
お客様の前で輪島塗の器の仕上がりのイメージを、すらすらと絵に描いて見せ、仕上がった見本が無くても注文を取りました。器の形や色、蒔 絵・沈金の模様まで、その場で細かくうち合わせができ、仕上がった品は、大変お喜び頂いたそうです。
私もそうなりたいと、自己流ながら勉強し、輪島の技法の全てを頭にたたき込み、
お客様の求める物のイメージを形にしたい、と思っています。
現在は、器物の 形から、蒔絵・沈金の図案までお客様のご要望に合わせ、
自分で作図して制作にあたります。
頭の中で見える仕上がりの姿を、木地師から蒔絵・沈金師に細かく 指定し、
喜ばれる、そして末永く愛して頂ける輪島塗を生み出していきたいと考えております。
輪島漆器商工業協同組合 監査役
石川県輪島漆芸美術館 友の会 事務局長
合気道 奥能登合氣会 会長
輪島漆器大雅堂株式会社 代表取締役