ものづくり
ものを最小化すると素粒子になる
この世に存在するすべてのものは、皆、細かく細かくしていくと同じ物質で出来ている。現在、その最小のものは、素粒子(クオーク)と考えられており、それらの組み合わせで石や水や植物、人間もできている。
ではなぜ、それぞれ形や色・性質が違うのだろうか。そこに存在するものは、そこにあるための働きがあり、初めて形や色・性質などを成すのである。
形あるもの・色あるものは、その形と色であるため、あり続けるための働きがある。その働きとは、思いであり、そうありたいという意志である。既に存在するものは、そうありたいという意志を持っているから、そこに存在するのである。
組み合わせることで新しいものになる
何かを新しく作るということは、どういうことなのだろうか。今まであったものを、組み合わせて別のものを作りだす。
そうありたいという意志を、人が変え、別のそうありたいという意志を持たせることになるのではないか。
作り手自身の思い
人は、ものづくりの際に、この形でその色でありたいという意志を持たせるだけでなく、好むと好まざるとに関わらず、知らないうちに作り手自身の思いまでが吹き込まれてしまい、永続的にその思いを発動させていることになる。
よく「命を吹き込む」とか「魂を込める」などと言うが、そんな大そうなことを考えるから、邪念が生まれ、まやかしが生まれてしまうのではないか。
よくある「使う人に幸せになってほしい」というのは、それを買って使えば、幸せになれると言っているようなものであり、毎日毎日この野郎あの野郎と思っている作り手が作れば、幸せになってほしいといううわべの思いより、心からそう思っている この野郎あの野郎が込められてしまっているのではないだろうか。
今の自分以上でも以下でもない
詰まる所、今の自分以上でも以下でもない、そのままの心・思いがものづくりに現れることになると思う。作り手の思いは、別に一生懸命吹き込まなくても、吹き込まれてしまう、のである。
普通に普通のものを作ることは、本当は非常に困難な作業ということになるだろう。作り手が、普通に普通のものを作る為には、そのままの自分を人として向上させる以外に、道は無い。
しかし、実は素晴らしい抜け道もある。それは、作り手が無心になる事である。ただ、一生懸命もくもくと作る。そこには、もはや薄っぺらな思いなど介在しないのである。
無心になれるときは好きなことをするとき
私が聞いたある禅僧のお話です。「座禅をすると、無心になれるものでしょうか?」の問いに、「いいや、なれない。目を閉じてじっとしていると、次々に様々なことが湧水のように脳裏に浮かぶんだよ。」
続けて「では、無心になれる時はどんな時でしょうか?」の問いに、「食事の時です。」そして、「がむしゃらに食事をしているときは、無心である。好きなことを一生懸命やっているときは、まさに無心である。」とおっしゃいました。
なるほど、人は好きなことをやっているときは、がむしゃらに無心に取りくんでいるものである。自分の好きなことを仕事にする理由が、ここにある。
無心だと、何がいいのか
無心だと、何がいいのか。
無心は、深層心理とつながり、他の深層心理とつながる。それは、植物・動物・鉱物など、あらゆるものとつながり、地球や宇宙ともつながると言われている。
無心にも段階があると思うが、作り手の無心と人としての向上とを両輪のように深めていけば、いつしか作り手の作品に、神仏の意志が吹き込まれることになるかもしれない。
若島基京雄(わかしまきみお)
全国を行商して歩いた祖父・父は、旅先で大変可愛がって頂き、現在でも祖父・父を知るお得意さまが多数ございます。
祖父・父は、「物がなくても売る」達人 営業マンでした。
お客様の前で輪島塗の器の仕上がりのイメージを、すらすらと絵に描いて見せ、仕上がった見本が無くても注文を取りました。器の形や色、蒔 絵・沈金の模様まで、その場で細かくうち合わせができ、仕上がった品は、大変お喜び頂いたそうです。
私もそうなりたいと、自己流ながら勉強し、輪島の技法の全てを頭にたたき込み、
お客様の求める物のイメージを形にしたい、と思っています。
現在は、器物の 形から、蒔絵・沈金の図案までお客様のご要望に合わせ、
自分で作図して制作にあたります。
頭の中で見える仕上がりの姿を、木地師から蒔絵・沈金師に細かく 指定し、
喜ばれる、そして末永く愛して頂ける輪島塗を生み出していきたいと考えております。
輪島漆器商工業協同組合 監査役
石川県輪島漆芸美術館 友の会 事務局長
合気道 奥能登合氣会 会長
輪島漆器大雅堂株式会社 代表取締役